Fukushima Circulation

~ 福島県を巡って ~

安積開拓

安積開拓に生きた人々(安場・中條・大久保)

このお題では「へっ? 」となる方も多いと思います
echoesのホームページに、今までのアップした
内容のものがありますので、よろしかったら見てください

echoes5150 Home Page
さらっと宣伝をしたところで・・・( 恐縮です )

安積開拓の原点である大槻原( 開成山一帯 )の開拓は
安場保和が明治5年に福島県に赴任してきた時から始まります

安場保和は熊本藩士で、幕末に郡山出身の
安積良斎塾( あさかごんさい )の生徒名簿に名を連ねた
人物であり、明治4年には遣米視察団の一員として
岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などと
アメリカへ渡った開拓の先見者でした
無題
❆ 開拓の先見者” 安場保和 "

県令( 現在の知事相当職 )になった安場は、旧米沢藩士
中条正恒を県の典事( 課長職 )に任命して大槻原の
開拓に当たらせました

中条正恒は、米沢藩主へ北海道開拓を主張していました
人物で、北海道開拓に大きな夢を描いていましたが
その夢は実現しませんでした
無題1
❆ 安積開拓の父" 中条正恒 " ❆

アメリカの広大な開拓を目の当たりにし、日本における
開拓の必要性を感じていた安場保和と、開拓の夢を
描いていた中条正恒の運命的な出会いが、" 安積開拓 "
という大事業を成し遂げることになりました

明治9年、中条正恒は明治天皇の東北巡幸の先発として
来県した大久保利通の福島の宿舎を訪ねました

そこで中条正恒は、県の事業として開成山の開拓や
桑野村が立派にできたこと、さらに安積野全域に
開拓を拡大すること、そして、そのために猪苗代湖の
水を安積の地へ引く事業を国の費用でやってもらいたいと
いうことを強く大久保利通に訴えました
無題2
❆ 中条正恒と大久保利通の会談図 ❆

もともと殖産興業と士族授産の持論があった大久保利通の
考え方と中条正恒の要望は一致しました
そして、この2人の出会いから国営安積開拓と
安積疎水開削事業がスタートすることになります
無題3
❆ 時の実力者であった" 内務卿・大久保利通 " ❆

帰京した大久保利通はさっそく内務省から2人の調査官を
東北に派遣し、大規模な開拓に適する原野の視察を命じました
2人は青森県の三本木原から栃木県の那須野原まで
詳しく調べ、その結果、安積の諸原野が最適地であると
政府に報告しました

政府は、安積の諸原野の開墾を決定し猪苗代湖の
水を引くことに加え、士族の移住計画を内定しました

明治政府による国営事業の第1号

前回" 中条正恒と開成社の設立 "の続きです

明治になり、旧武士たちは士族と呼ばれていたものの
生活は困窮を極めていました
士族の生活の窮迫と新時代の不平から、西国では反乱が
相次ぎ士族の救済は急務となっていました

大久保利通をはじめ、ときの政府要人たちは、世界との差を
実感し国の未来には" 殖産興業★ "と" 士族授産★ "が
必要不可欠と考え産業を興し、士族救済の政策を
実施してきました

そのような折、明治9年の明治天皇の東北巡幸に先じて
下検分に福島・郡山を訪れた大久保利通に中条正恒が
福島県と開成社による大槻原開拓事業の成功、そして
国営安積開拓の必要性を力説しました

その熱意を受けた明治政府は、安積開拓と猪苗代湖から
水を引く安積疎水事業に乗り出しました
無題
これでは見ずらいので
201409091602039da
こっちのほうが分かりやすいですかねぇ

政府が本格的に士族移住に取り組むのは明治11年からで
福島県内では二本松・棚倉・会津、県外では九州の久留米
四国の高知・松山、中国の鳥取・岡山、そして東北の米沢の
9藩の士族など、全国から約500戸、2000人あまりの人が
移住してきました

★ 殖産興業
明治政府が西洋諸国に対抗し、産業や資本主義の育成により
国家の近代化を推進した、さまざまな政策を言います

★ 士族授産
職を失った士族の救済のためにとられた明治政府による
一連の政策を言います
農・工・商業への転職の推進
官有林や荒地の払い下げなど

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中条正恒と開成社の設立

安積開拓、今回の記事は前回以上に知っている人は
知っている記事です・・・
" 興味のある方は "で構いませんので、もし良かったら
眺めてみてください

中条正恒らは、旧二本松藩士の移住や安積郡の農民への
呼びかけだけでは、とても目標を達成できないため
民間参加による開拓を同時進行の形で進めました

これは、江戸時代後期から宿場町として栄えた郡山宿の
富裕な商人の出資による開拓会社を組織し、多くの
開拓者移住を募集するというものでした

中条正恒は、郡山の商人を集め開墾を力説しましたが
商人たちは開拓事業については全くの未経験であり
" 商売以外手を出すな "という家訓があったこともあり
開拓事業には乗り気ではありませんでした
無題
中条正恒と富商との会談図

それでも中条正恒は、地元の富商らと会談し
「 それぞれ富豪といっても村のため、国のため尽くすことがなければ
守銭奴と侮辱されることを免れることはできない 」と開拓の
必要性を説きました

この中条正恒の情熱に心を動かされた阿部茂兵衛など
25名の富商によって結成されたのが、安積開拓成功の
カギとなった" 開成社 "です
無題2
開成社の社長として資材を尽くし、開拓に尽力した
" 阿部茂兵衛 "
無題1
開成社 社員25名

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大槻原(開成山一帯)の開拓

知らない方は" 何この記事 "とお思いでしょうが福島県が
世界遺産に認定された安積開拓を記事にしています
興味のある方は是非見てってください
( 本当に知っている人は知っている記事です )

明治政府の開拓が決まる前、地元( 郡山市 )では
福島県と開成社による開成山一帯の開拓が進められ
これが後の" 国営安積開拓 "へとつながりました
言い換えると、福島県と開成社による大槻原開拓が
なければ、国営安積開拓は実現しなかったといえます
無題1
開拓当時の絵図
上:上ノ池( 現在の郡山市のシンボル" 開成山公園 " )
中:開成沼( 現・開成山球場と陸上競技場 )
下:下ノ池( 現・水道局(豊田浄水場)現存しています )

この大槻原開拓は明治5年、安場 保和が県令(現在の知事)
として福島県に赴任した時から始まります
安場 保和は、旧米沢藩士の中条 正恒を県の典事(課長職)に
任命し安積開拓のすべてを任せました

そして、士族授産を第一の目的にしたこの事業は
中条 正恒ら県官の努力のもと大槻原一角への
旧二本松藩士族の移住から始まりました
旧二本松藩士族が入植したのは、後の桑野村で
明治6年に移住した士族は19戸

当時は富田村や大槻村の古村に仮住まいしながら
開拓地へ通って開墾を行い、よく明治7年に南町の
開拓道路( 現在の安積高校通り )の両側に住宅が建てられ
そこへ移り住むようになりました
その後明治7年から明治13年までに9戸が入植し
全戸数8戸が開拓に従事しました
無題2
桑野村の入植図
❆ 現在の開誠館周辺の入植の様子 ❆

ここはちょっと詳しいので
中央部の五十鈴湖⇨開成山公園
縦に走る開拓道路⇨国道49号線
横に走る開拓道路⇨安校通り
" 文 "小学校⇨開成小学校
" 文 "⇨安積高等学校
" 卍 "⇨道因寺(echoesのお寺)
開成山大神宮:現在も一緒






他方、開成社は開墾地を耕作させるため、明治7年
桑野村北町に61戸の小作人家屋を建て
明治11年までにさらに41戸が増え全戸数が102戸となりました

かつて不毛の原野だった一帯は、次第に
その姿を変えていきました

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安積開拓~郡山発展の礎~

前記事" 安積開拓に懸けた先人たちの夢 "と被る部分もあるんですが
安積開拓をもうちょっと詳しく紹介してみようかと
安積疎水もちょっと出てきますが、安積疎水は別途詳しく
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明治初期、戊辰戦争に敗れ賊軍の汚名をこうむった東北地方は
" 白河から北は一山百文★の価値しかない "とさげすまれていました

明治新政府が東北地方の開発を直接国の費用で実施するように
なるのは明治10年ごろからで、その第1号としてこの
" 安積の大地 "が選ばれました

これが世にいう" 安積開拓 "です

水の便が悪かったこの地で、大規模な開拓を行うために
猪苗代湖の水を安積の大地に引いた国営による安積疎水の
開削事業が行われました

安積疎水の開削が国営で行われることが約束されると
9藩( 久留米・鳥取・岡山・松山・土佐・米沢・二本松・会津・棚倉 )の
士族など、全国各地から約500戸・2,000人あまりの
人々が安積郡の諸原野に移住し、この原野を切り開きました

そして、これらの事業により現在の郡山発展( 安積郡全域 )の
基盤が築かれることになりました
5_102_Rkaiseikan_1
写真左:安積開拓当時の開拓地の様子
                         ( 奥の建物が開拓の中心となった開誠館 )
写真右:安積開拓の歴史を今に伝える現在の開成館

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