Fukushima Circulation

~ 福島県を巡って ~

安積開拓・安積疏水

安積開拓に生きた人々( 久米正雄と宮本百合子 )

安積開拓が育んだ二人の作家
久米正雄と宮本百合子

久米正雄と宮本百合子は、祖父の縁もあり幼少のころから顔見知りでした

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久米正雄は、明治24年に長野県で生まれましたが、父親が亡くなり
立岩一郎( 中条正恒が最も信頼して人物 )の娘であった母親の
実家である郡山の桑野村開成山に移り住みました
開成小学校、金透高等小学校、安積中学校(現・安積高等学校 )で
学んだ久米正雄は、安積中学のころから俳句に親しみ、久米三汀
( さんてい )として頭角を現しました

そして東京大学に進み、菊池 寛や芥川龍之介らと出会い、作家として
小説・戯曲の分野でも一流となりました
久米正雄の初期の作品には郡山を題材にしたものが多く" 牛乳屋の
兄弟 "は安積開拓の中心地であった開成山の牧場をモデルに描いた
社会劇で、ほかにも" 三浦製紙工場主 " " 阿武隈心中 などがあり
郡山の近代化の様相と人々の姿を描いています
1954
δ 久米正雄の句碑( 開成山公園内 )δ

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宮本百合子は、明治32年に東京で中篠正恒の長男・精一郎の長女と
して生まれました
中条正恒は村人の懇情により明治30年に桑野村に帰り住みましたが
( このとき立岩一郎が村長 )、その3年後、59歳で亡くなりました

宮本百合子は、夏休みに祖母の住む開成山に度々遊びに来ていて
開拓村の小作人の貧しい生活ぶりを目の当たりにしました
裕福な家庭で育った宮本百合子は、貧富の差があまりに大きいのに
驚き、彼女の清純な心で開拓農家の貧しい生活をありのまま
克明に描いたのが、デビュー作" 貧しき人々の群 "です
ほかにも、開成山を舞台とした小説に" 伸子 " " 播州平野 "
などがあります
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宮本百合子の文学碑( 開成山公園内 )

もしよかったら読んでみてもらっては・・・
それにしても、久米正雄って頭良かったんだなぁ_(;゚Д゚)
開成小学校と金透小学校は、今もちゃんとした小学校ですし
開成山に牧場・・・初めて知りました_(-_-;)

では、この辺で・・・

安積開拓に生きた人々(ファン・ドールンと小林久敬)

随分とお久しぶりの" 安積開拓 "の記事になります
もともと、この" 福島 "のブログを始めたきっかけがこの" 安積開拓 "で
去年、日本遺産に認定されています

突然" 安積開拓に・・・ "なんで戸惑う方もいると思いますが、サイドバーに
過去記事のリンクを作りましたので興味のある方は、覗いてくださいな
簡単に説明すると、echoesの住んでいる" 郡山市 "は
こんな風に開拓されて発展しましたという内容です( 田舎ですけどね

興味ない方はスルーで構いませんよー" ファン・ドールン "とかから
スタートなので・・・( 時間置き過ぎたわ・・・


ファン・ドールンは、オランダの技術者で、明治5年に来日し土木寮の
長工師として最高位の職にあった人物です
明治政府は、安積疎水のコースとして" 沼上峠案 "をファン・ドールンに
検討させました
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コルネリス・ヨハネス・ファン・ドールン

明治11年11月、沼上峠のコースを調査したファン・ドールンは、沼上峠の
コースを" 天を与えるところ "と高く評価し、湖水( 猪苗代湖 )の水位を
変更することなく、安積地方に水を引くことができることを学術的
計算から立証しました
これによって、政府は疎水のコースを沼上峠と決定しました
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戸の口十六橋の畔で猪苗代湖を見下ろし、はるか安積平野までも
見いつめているかのように佇むファン・ドールンの像

一方で、猪苗代湖から水を引くことは、地元の人々の間でも前々から
考えられていました
なかでも、小林久敬は幕末から疎水開削を提唱し、自ら測量するなど
全財産を投じて" 斉木峠案 "を主張し、沼上峠コースが決定すると
これに反対し、東京にまで移り住んでまで政府に陳情などをしました
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猪苗代湖の疎水に生涯をかけた" 小林久敬 "

全財産を投じ、無一文になっても猪苗代湖からの疎水に生涯をかけた
小林久敬は、疎水完成を目の当たりにし" あらたのし 田毎にうつる
つきの影 "という感慨の句を残しました
この句碑は郡山市の荒池公園の畔の愛宕神社に今も残っています
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郡山市の荒池公園南側にある小林久敬の顕彰碑と句碑

安積開拓に生きた人々(安場・中條・大久保)

このお題では「へっ? 」となる方も多いと思います
echoesのホームページに、今までのアップした
内容のものがありますので、よろしかったら見てください

echoes5150 Home Page
さらっと宣伝をしたところで・・・( 恐縮です )

安積開拓の原点である大槻原( 開成山一帯 )の開拓は
安場保和が明治5年に福島県に赴任してきた時から始まります

安場保和は熊本藩士で、幕末に郡山出身の
安積良斎塾( あさかごんさい )の生徒名簿に名を連ねた
人物であり、明治4年には遣米視察団の一員として
岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などと
アメリカへ渡った開拓の先見者でした
無題
❆ 開拓の先見者” 安場保和 "

県令( 現在の知事相当職 )になった安場は、旧米沢藩士
中条正恒を県の典事( 課長職 )に任命して大槻原の
開拓に当たらせました

中条正恒は、米沢藩主へ北海道開拓を主張していました
人物で、北海道開拓に大きな夢を描いていましたが
その夢は実現しませんでした
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❆ 安積開拓の父" 中条正恒 " ❆

アメリカの広大な開拓を目の当たりにし、日本における
開拓の必要性を感じていた安場保和と、開拓の夢を
描いていた中条正恒の運命的な出会いが、" 安積開拓 "
という大事業を成し遂げることになりました

明治9年、中条正恒は明治天皇の東北巡幸の先発として
来県した大久保利通の福島の宿舎を訪ねました

そこで中条正恒は、県の事業として開成山の開拓や
桑野村が立派にできたこと、さらに安積野全域に
開拓を拡大すること、そして、そのために猪苗代湖の
水を安積の地へ引く事業を国の費用でやってもらいたいと
いうことを強く大久保利通に訴えました
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❆ 中条正恒と大久保利通の会談図 ❆

もともと殖産興業と士族授産の持論があった大久保利通の
考え方と中条正恒の要望は一致しました
そして、この2人の出会いから国営安積開拓と
安積疎水開削事業がスタートすることになります
無題3
❆ 時の実力者であった" 内務卿・大久保利通 " ❆

帰京した大久保利通はさっそく内務省から2人の調査官を
東北に派遣し、大規模な開拓に適する原野の視察を命じました
2人は青森県の三本木原から栃木県の那須野原まで
詳しく調べ、その結果、安積の諸原野が最適地であると
政府に報告しました

政府は、安積の諸原野の開墾を決定し猪苗代湖の
水を引くことに加え、士族の移住計画を内定しました

猪苗代湖の水を安積の地へ

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左:安積疎水完成時の" 安積疎水麓山の飛瀑 " 通称 麓山の滝
右:現在の麓山の滝( 国指定登録有形文化財 )

水利の良くない安積平野の開拓を成功させるためには
猪苗代湖の水を安積の地へ引く安積疎水の開削が
必要不可欠でした
しかし、明治11年5月、時の政府の実力者で安積疎水の最大の
理解者だった大久保利通が凶刃に倒れました
この朝、生前の大久保利通が最後に会っていたのが、当時の
福島県令の山吉盛典でした

大久保邸を訪れていた山吉盛典は、その会談で初めて
安積疎水が正式に実施されることを知り" 済世遺言 "という
大久保利通の会見記に、大久保利通の遺言として安積疎水の開削の
効用を記し、これを関係の閣僚に送りました

大久保利通の死後、一時政府の安積開拓事業への関心が
薄れましたが、中条正恒の熱意により次の内務卿・伊藤博文らに
引き継がれました
無題無題1
左:旧 戸の口十六橋水門( 明治13年に完成した当時の十六橋 )
右:新 戸の口十六橋水門( 大正3年に改築された現在の十六橋 )

政府は土木寮の長工師という技術者の最高位の職にあった
オランダ人のファン・ドールンに沼上峠のコースを検討させ
その調査結果に基づきルートを沼上峠コースト決定し
明治12年10月に開成山大神宮で起工式を行いました

疏水工事は延べ85万人、3カ年の歳月を費やし、明治15年8月に
完成しました
疏水の通水式は、同年10月1日に完成山大神宮広場で開催され
右大臣・岩倉具視、参議・松方正義、西郷従道・農商務卿などの
政府高官が参列しました

祝賀会は麓山公園で開かれ、宴会では洋食が出されました
園内には数百の球燈(ちょうちん)を揚げ、山車を備えて
歌舞伎が催され、花火200発が打ち上げられるなど、郡山村と
桑名村は、今だかつてない人出で賑わいました

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明治政府による国営事業の第1号

前回" 中条正恒と開成社の設立 "の続きです

明治になり、旧武士たちは士族と呼ばれていたものの
生活は困窮を極めていました
士族の生活の窮迫と新時代の不平から、西国では反乱が
相次ぎ士族の救済は急務となっていました

大久保利通をはじめ、ときの政府要人たちは、世界との差を
実感し国の未来には" 殖産興業★ "と" 士族授産★ "が
必要不可欠と考え産業を興し、士族救済の政策を
実施してきました

そのような折、明治9年の明治天皇の東北巡幸に先じて
下検分に福島・郡山を訪れた大久保利通に中条正恒が
福島県と開成社による大槻原開拓事業の成功、そして
国営安積開拓の必要性を力説しました

その熱意を受けた明治政府は、安積開拓と猪苗代湖から
水を引く安積疎水事業に乗り出しました
無題
これでは見ずらいので
201409091602039da
こっちのほうが分かりやすいですかねぇ

政府が本格的に士族移住に取り組むのは明治11年からで
福島県内では二本松・棚倉・会津、県外では九州の久留米
四国の高知・松山、中国の鳥取・岡山、そして東北の米沢の
9藩の士族など、全国から約500戸、2000人あまりの人が
移住してきました

★ 殖産興業
明治政府が西洋諸国に対抗し、産業や資本主義の育成により
国家の近代化を推進した、さまざまな政策を言います

★ 士族授産
職を失った士族の救済のためにとられた明治政府による
一連の政策を言います
農・工・商業への転職の推進
官有林や荒地の払い下げなど

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