この「 安積開拓に懸けた先人たちの夢 」は
今回で終了にします

❆ 国を動かした地元の想い ❆
郡山に転機が訪れたのが明治9年
この年、明治天皇の東北巡幸に先んじ下検分のため時の
実力者であった内務卿の" 大久保利通 "が福島を訪れました
これを絶好の機会ととらえ中条 正恒は福島の大久保利通の
宿舎を訪ねます

ここで中条 正恒は県の事業として開拓が立派にできたこと
さらに安積野全域に開拓を拡大するために猪苗代湖の水を
この地域に引くことを国費でやってもらいたいと強く要望しました

もともと殖産興産と士族授産が持論の大久保利通と中条 正恒の
考えは一致し、この出会いが国営安積開拓と疎水開削のスタートとなりました

❆ 大久保利通の遺言と安積開拓 ❆
大久保利通の後ろ盾により明治11年3月、国営開拓第1号事業として
国で「 安積開拓 」の予算が計上されました

しかし2か月後の5月、大久保利通は暗殺により突如この世を去ります
この日の朝、生前の大久保利通が最後に会っていたのが
大久保邸を訪れていた当時の福島県令の山吉 盛典でした
この会談で山吉 盛典は安積開拓が正式に実施されるのを知り
それまでは安積開拓に乗り気でなかった山吉 盛典でしたが
この会見を記した「 済世遺言 」に大久保利通の遺言として
安積疎水開削の効用を記し、関係閣僚に送りました
大久保利通の死後、政府の安積開拓の関心は薄れていましたが
中条 正恒の熱意により次の内務卿・伊藤博文らに受継がれました

そして明治12年、オランダ人技術師ファン・ドールンの調査結果に基づき
安積疎水開削を最終的に意思決定したのです
5_101
夢がかなわなかった" 大久保利通 "
p-014
オランダ人技術師" ファン・ドールン "

❆ 安積開拓が遺したもの ❆
国営安積開拓により当時約500人の" まち "の周辺に
9藩から約500戸、2000人あまりの人びとがやってきました

その入植の第一陣が久留米士族です
これを機に岡山・土佐・鳥取・二本松・棚倉・会津・松山・米沢の
各藩から人々が集いました

しかし、耕作技術の未熟さや土地が肥沃でないことなどの
状況が重なり、収穫は驚くほど低く移住士族は困窮を極めました
中には、負債がかさみ家財道具を売り払い一家離散した人々も多くいました

このような苦難を乗り越えて開墾は続けられ、安積疏水の
開削により猪苗代湖の豊かな水に潤された郡山は
しだいに肥沃な大地へと変貌しました

そして、疏水による" 電力 "・開墾による" 桑畑 "のおかげで
繊維工業が栄えるとともに豊富な米をはじめとした農作物にも
恵まれ全国各地からこの地に集い、またたくまに
県下を代表する" まち "へと奇跡的な発展を遂げました

その後も大正・昭和と時代を経て郡山は多くの人々を
惹きつけ続けてきました

先人たちがこの地に未来を見た夢
先人たちの夢見た豊かな大地は生きています

先人たちが不屈の精神で心血を注ぎ築き上げた
自然の恵み豊かな大地に今
この時代に生きる私たちの息吹を加え
次の世代につないでいく

安積開拓・安積疎水開削を大きく記載してきました
次回からはこのシリーズは” 安積開拓 " " 安積疏水 "を
もうちょっと噛み砕いてみようと思っています
ぶっちゃけ、一地方の開拓の話なので
" 知ってる人は知っている "の内容だと思いますが
せっかく" 日本遺産 "に選ばれたのでもう少し付き合ってください

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